setofuumiのblog

格ゲーを見ます

2020年にもなってゲームのガチカジュアル論を見て思ったこと

特に面白くならなかったのでそのままおいとく

 

そもそもとして「ガチ・カジュアル論争」みたいなのは昔からずっとあって今も続いている、というのが順当なとこだとおもうのだけど、それにしてもPS以降(2000年以後くらい?)のそれは「単純な二項対立」ではなくなったはず。
まず現代のゲーム環境において「人」単位でガチ・カジュアルを分けるのはどう考えても無理だし、もしやってしまうのならものすごく雑である、というのがある。フォールガイズを気楽に楽しむ人がモンスターハンターを年1000時間レベルでエンドコンテンツまでやっていることもあろうし、シューターをガチガチにやる人が音ゲーの中級に留まって(ガチから見ればダラダラと)普通に楽しんでいることもある(ここでもし「Aのゲームをやり込むのはガチ、Bのゲームをやり込んでもそれはガチとは呼ばない」みたいな峻別をするのならばそうですかとしか言えないしなんだそりゃってなる)。
まさか「スマホゲーはゲームではないはぐれメタルを100時間狩るのがガチのゲーム」(数年前twitterでだいぶ笑われた発言)というのをまたやりますか?という話ではある

その点でまず「先に行けてない」。PS1の時点で「ガチゲーマー」としての意識なんてカケラもない人がたまたま一つの作品においてめちゃくちゃにゲームをやり(時間だけでなくいわゆるセンス・成績がいいこともままある)、やった後もその意識は変わらない、という例は無限にあるんだけど、それすら踏まえられていない

もう一ついうと「相手を侮辱すること」そのものに対してアイデンティティがあるのって何なの?ということ。侮辱も罵倒も言葉でありミームであるわけだからそれに愛着を持つのはわかるけど、それこそがこのゲームと不可分でアイデンティティなんです!といわれると、えっ本当?それがコアだったの?ゲームの中身じゃないの?あるいはゲームと自分との関係性とかはどうでもいいの?ってなってしまう。
ゲームにおいて人を侮辱できることが絶対必要・ないとダメかのような言い方までいっちゃうと本当に意味が分からない。ゲームの体験あるいはゲームとあなたの関係ってそれだけで損なわれちゃうんだ(俺は損なわれるとは思えないけど)、としか言いようがない。
まあこれはこの記事だけでなく「ネットにおけるゲーム語り」全般にいえることで、SNS普及以降の「ゲームをやっていて何かを破壊しました・ディスクを割りました」アピールがテンプレになった(強い動機付けになっている)みたいな要素もあるだろうけど。

この2つにおいてめっちゃつまんねー記事だな!と思ったんだけど、とはいっても「俺とあの人とゲームとの関係」はフラットなはずはないわけで、それは個人の関係・体験なんだから当然他人とは違う。でもそこでもう過去にひっくりかえった概念や謎のアイデンティティなんてもってこないで、現代的な見方をして書いてほしかったなと思う